2025年
ーーー11/4−−− 工房の清掃
我が工房は、常に散らかっていて、ゴチャゴチャな状態にある。この夏に来た次女の婿殿が、次女にこっそり言ったところによると、「お義父さんの仕事場、ちゃと片付けた方が良いと思うけど…」。彼は重工業メーカーの工事部門で働いていて、日頃「整理整頓」を指導する立場である。
工房内をきちんと片付けておけば、作業能率が良い。散らかっていると、探し物に時間を取られるからである。また、清掃しておけば、安全でもある。床に散らかった残材につまづいて、よろめいた時に回転中の刃物に触れたりしたら、一大事である。だから片付けや清掃は、やるに越した事は無い。それは判ってはいるが、仕事に追われていると、つい後回しになる。そして、いったん散らかり始めれば、弾みが付いてどんどん進行する。これはいかんと気が付いても、「今さら・・・」という気になって、放置する。かくして、工房内は足の踏み場も無いほどゴチャゴチャになる。
10月の上旬、コロナに感染して十日間の自宅待機となった。ちょうどリンゴ農園の、秋の作業の最中だったが、急遽休みを頂いた。思いがけなく、数日間の休日となったわけだが、他にすることも思い付かなかったので、工房の清掃をすることにした。前回いつやったかと言えば、そんな昔の事は覚えていない。
工房の清掃は、二つのステージに分かれる。一つ目は、床に散らかった残材の片付け。二番目は、おが屑、切り落としの木端類、つまり細かいゴミの清掃である。
残材は、バンドソーで適当なサイズに切って、コンテナに収納する。コンテナの中身は、最終的に薪ストーブの薪となる。この作業は、やる気さえあれば、難しさは無く、むしろ着々と進み、また薪が蓄えられるというプラスの面もあるので、それほど苦にならない。
面倒なのは、おが屑と切り落としの小さな木片が混在しているゴミの片付けである。おが屑だけなら、集塵機のホースで吸い取れば良い。集塵機に溜まったおが屑は、袋ごと取り出して庭に撒かれ、土に混ざって肥料となる。しかし実際は、おが屑の中に木片が散らばっているケースが多い。おが屑と木片が混じっていると、集塵機を傷めるので、吸い取ることができない。そこで、木片を分ける必要がある。一つ一つ手で拾って集めるので、これはかなり面倒な作業である。集めた木片は、薪ストーブで燃やす。後に残ったおが屑は、集塵機で吸い取る。
以上は、機械場の清掃作業に関する記述である。これまでは、これだけで済ませていた。今回は日数に余裕があるので、組み立て場の、作業台回りの清掃も行うことにした。作業台の正面は、作業の際に立つ場所なので、さすがに散らかってはいないが、脇とか裏側は、まるでごみ溜めのようで、見た目に非常に印象の悪い状態になっていたが、見て見ぬふりをして過ごしてきたのである。
このエリアは、釘、木ネジ、針金、その他雑多な金具類が散乱している。さらに、一部の工具類や治具なども散らかっている。それらを整理し、不要な金属類を集めて処分しなければならない。金属類をゴミとして出すのは、けっこう面倒な気がしていた。それがネックとなって、ここは清掃、片付けの空白地帯となっていたのである。
針金の切り落としや、不要となったネジ類などの細かい金属を、そのままゴミとして出すわけには行かず、金属の缶に納めなければならない。何か良い缶が無いかと探したら、見付かった。蚊取り線香の缶。丁度良い大きさである。散乱した金属ゴミを、手で拾ってその缶に入れる。これも面倒な作業だが、少しずつ時間をかけてやった。金属ゴミを取り除き、工具や治具を片付け、最後に木屑を吸い取れば作業完了。
毎日少しずつ、数日をかけて、工房全体の清掃と片付けが終了した。機械場は、床の土間コンが見え、散らかった木材の上を歩かなくて済むようになった。組み立て場も見違えるほど綺麗になり、作業台の周りを歩いて通過できるようになった。
綺麗になった仕事場を見るのは、気持ちが良い。整理整頓は、仕事をする際の、心理的な面でも大切な事だと、殊勝な気持ちになった。
こんなに綺麗になった工房で木工仕事をするのは、さぞかし気持ちが良いだろう。しかし、やるべき木工の仕事は無く、待っているのはリンゴ農園のバイトだけ(笑)。こういうのを、マーフィーの法則と言うのである。
マーフィーの法則と言えば、こんなのがあった。
「幸せを願って木を叩こうとしたとき、身の回りのものが金属とプラスチックだけでできていることに気がつく」
欧米には、木で作られた物を叩くと、願いがかない、幸せが得られるという伝説があり、その行為を Knock On Wood と言う。
ーーー11/11−−− 乗り物酔い
孫娘のHちゃんは、小学5年生だが、自動車が苦手で、乗り物酔いをする。松本空港から我が家までの、1時間足らずのドライブでも、かなり辛そう。ビニール袋を手に、青い顔をして耐えている様は、傍目に気の毒なくらいである。乗り物酔いというのは、年齢的なものもあるようだ。私が小学生の頃も、学校行事のバス旅行となると、必ず数名は酔う子が出た。車中で、先生がその手当に翻弄されるのが、お決まりのパターンだった。中には、バスに乗っただけで、動き出す前からグッタリとする子もいた。
私はと言えば、バスのように大きい車は大丈夫だったが、自家用車やタクシーは苦手だった。それこそ、乗り込んだ矢先に、狭い空間と車内の臭い(たぶん、シートのビニールの臭い)に気が滅入り、嫌な予感に苛まれたものだった。実際、車の中で吐いて、迷惑をかけたこともあった。
そんな私が、乗り物酔いから解放されたのは、大学に入って酒を飲むようになってからだと思う。大学のサークル活動に飲酒は付き物だと思うが、私が入った山岳部もかなりひどかった。そのサークルで、酒にまつわる喜怒哀楽を叩き込まれた。父親の家系は酒好きの傾向が強いが、私がその血を引いている事を認識したのも、その頃であった。後年、母はよくこのようにこぼしていた、「收さんは、小さい頃はおっとりとして品が良い子だったのに、大学の山岳部に入ってお酒を覚えてから、すっかり荒くれた人間になってしまった」
酒を飲んで激しく酔っぱらうことを経験するうちに、乗り物酔いなど気にならなくなったようである。科学的な理由は不明だが、たしかにその頃から、車に対する苦手意識は消え去った。母は悪口ばかり言っていたが、山岳部の酒乱行為が、良い結果をもたらした部分もあったと言える。
ところで、母方の祖父(母の父親)は、穏やかで品の良い紳士だったらしい。祖父は母が若い頃に病気で他界したが、母の理想の男性は、生涯を通じて祖父だったようである。酒に関わる話を母から聞かされた事が無いので、祖父は全く酒を飲まない人だったか、せいぜいたしなむ程度だったのではないかと思う。そんな家庭に育ったから、母は結婚して父と生活をするようになり、ずいぶん驚いたのではないかと想像する。
それはともかく、祖父はめっぽう乗り物酔いに強い人だったらしい。仕事柄旧満州との行き来があり、船に乗る機会が多かった。ある時、乗り込んだ客船が外洋で大しけにあい、乗客は皆ひどい船酔いになって、船室から出られない状態になった。そんな中、夕食時に食堂の席に着いたのは、祖父と船長の二人だけだったそうである。
酒を飲むようになって乗り物酔いが無くなったなどと言う話を、母に聞かせたことは無かったが、もし聞かせれば、母は「ふふん」とせせら笑っただろうか。
ーーー11/18−−− お手振りの楽しさ
観光列車の特集番組を観た。国内の名だたる観光列車、特別仕様の高級列車が次々と紹介された。そんな中に、一風変わった観光列車があった。列車そのものは、これと言った特徴も無いのだが、大勢の人が乗りに来るという。その人気の理由は、列車が走るのに合わせて、沿線のいたる所で住民が手を振ると言うのである。ただそれだけの事で、遠方からわざわざ乗りに来る。100回以上も繰り返し乗っていると言う、リピーターも多いとのことだった。番組で、ある男性を取り上げていた。やはり手を振って貰うのが嬉しくて、何度も乗車した。そのうちに、「お手振り」をする沿線の住民の一人と知り合うようになり、自宅に招かれて、食事を共にする仲になった。そして、自分も「お手振り」をやってみることになった。
「それがじつに楽しいんですよ」と男性は言った。列車の中から、手を振る人たちを眺め、それに手を振って応えるだけでも、心が通う気がして十分に楽しいのだが、それが逆の立場になると、つまり列車が来るのを待ち、それに向かって手を振ることを経験すると、「やみ付き」になるほど楽しいのだそうである。手を振り、振られるという事が、それほど楽しいのかと、不思議な気がしたが、自分でも一つ思い当る事があった。
我が家の娘二人は、それぞれ大阪と神戸に住んでいるので、帰省する際に飛行機を利用することが多い。だから、松本空港まで車で迎えに行ったり、送ったりすることが、年に何回かある。そんな時は、ターミナルビルの屋上の送迎デッキで、着陸、離陸を見るのが常である。
出発便の場合は、窓越しに待合室から搭乗口に向かう娘家族を見届けると、屋上へ上がる。旅客の搭乗が終わると、ボーディング・ブリッジが切り離され、トーイングカーに押されて、機体はゆっくりと後退し、所定の位置まで移動する。その動き始めの時に、ほとんどの場合操縦士が送迎デッキにいる人々に向かって手を振る。それに対して、デッキの人たちも手を振り返す。
なんとも和やかな風景だが、初めの頃の私は、何だか子供じみている気がして、あるいは照れ臭いように感じて、手を振らずに黙って見ていた。そんな自分に、無意味な頑なさを覚えることもあり、ある時意を決して、手を振ってみた。すると心が晴れ晴れとして、別の次元に置かれたような気がした。見知らぬ人が相手でも、いや見知らぬ人だからなおさら、手を振って気持ちを届けようとする行為には、心に響くものがあると、その時初めて気が付いたのである。
ーーー11/25−−− 褒めてくれた音楽教師
フォルクローレのライブ演奏で、毎回1曲くらいはボンボ(大きな太鼓)をやらされる。やらされると言うと聞こえは悪いが、私はボンボを習った事が無く、ちゃんとした練習をしたことも無い。それでも、やれと言われるからやる。そんな状況なので、そのような表現が似合っている。フォルクローレでは、一人の演奏家が何種類かの楽器を持ち替えで演奏する事が普通である。私も、ケーナ、チャランゴ、サンポーニャを演奏する。しかし、ボンボはレパートリーに入っていなかった。だいたい楽器を持っていない。そんな私に役目が回って来たのは、太鼓が必要だけれど楽器の構成から他のメンバーが使えず、簡単なリズムで誰でも出来るから、あんたがやってくれ、というような流れだった。楽器はライブハウスに有るので、その気になれば誰でも叩ける。
最初に演奏したのは、一年ほど前だったか。当日のリハーサルで、突然頼まれた。単純なリズムだったので、すぐに覚えて本番に望んだ。終わった後「私のボンボはどうでしたか?」と訊ねたら、ほとんど褒めることをしないバンマス(先生)は、「ただ叩いているだけの演奏だったな。打楽器と言う物は、他のメンバーの演奏を盛り上げるものでなくてはダメだ」と言った。つまり、可も無く不可も無く、であった。
その後も時々頼まれるようになった。たいがいは、本番一週間前のリハーサルの際に、リクエストが入る。難しいリズムの場合は、ボンボを借りて帰って、自宅で練習をした。また、借りずとも、自作の太鼓で練習をしたこともあった。我が家には、自作のバウロン(アイリッシュ音楽出使う、胴の浅い太鼓)に段ボールを巻いて作った、ボンボに似た形状の太鼓がある。
回を重ねるうち、ライブが終わると先生の方から、「今日のボンボ良かったよ」などと言われるようになった。どういう風の吹き回しだろうか。
ところで、一つ思い出す事がある。
中学生の頃、音楽の授業でリズムを取る学習があった。たしかラベル作曲のボレロだったと記憶しているが、そのリズムを叩いてマスターするというもの。数回の授業で練習をし、最後に生徒が一人ずつ演奏をして、先生の評価を仰いだ。上手に出来る子もいたが、そうでない子もいた。中には混乱して、「あれっ」とか言いながら、全く的外れな叩き方をする生徒もいて、気の毒だった。
私の番になった。普通にやり終えたと思ったが、先生から、「とてもリズム感が良いです。合奏をするときに、こういう人が一人いると、全体が良くなり、他の人が助かるものです」と、思いがけない事を言われた。何の授業であれ、先生から褒められることなどほとんど無かった私である。その先生の言葉が、とても印象に残った。
今から思えば、趣味のつたない楽器演奏を現在まで続けて来られたのは、あの先生の一言が励みになったのではないかと思う。私にも、この方面では、多少の才能があるのだと。
あのような方を、立派な教師と言うのだろう。